昭和41年09月30日 夜の御理解
(出だし途中から)
を、開かせて頂いて、福田源三郎という偉い先生ですけれど、その方がもう昔ですね。まぁだあの星野教会があるような時ですから、先代の池辺先生がおられる頃ですから、随分昔の話です。でその随筆風にこう書いておられる書物をを、ちょっとこうはぐったらです。丁度あの三井教会の事を書いてあったり、星野の事を書いてあったりしますから、ちょっとそこを、まぁ一気に読ませて頂いたんですけれども。丁度あのあちらの、大変なゴヒレイを頂かれましてね。
一時はやっぱり、あの星野の中で八百軒からの信者が出来た軒数で。それがねある事情から、もう全然お参りが無くなった。もう全然お参りが無くなった、そこのところを、あの先生が池辺さんとか、先生から聞かせて頂いて、それを写しておられたのを、ここに書いてあるのです。読もうと思うけどとても、私じゃ読めないんです。こりゃもうそれこそ、あの胸が詰まります、私はこれを読むと。だから若先生にここを読ませますから、一つ皆さん聞いて下さい。一頁あまりだから良く聞いといて下さい。
「導師は、三井教会の手続きで、大正の初期に布教に出られたらしい。始めの五年間というものは、実に浅井商店の勢いで、信徒数は最高八百軒に上がったという。狭い教会では大祭などどうにもこうにもならんので、建築の儀が起こった。山持ちの信者が多いから、先ずご用材をと言うので、どんどん切り出して来て、教会の側に積み上げ、だが土地が決まらない。何しろ信者が広大な地域に、分散して集結しておるから、お互いに自分の方へ引こうとする。
こちらの土地を献納するからと、一方が言えば他方では、またこちらの方へと言い。信者同士が自然に二派に分かれて喧嘩をしてしまい。睨み合いの姿で自然に教会へ参らなくなったり、じりじりと寂びれて十年目の十月三十一日が、どん底であったという。その日家のうちにはもち米一升あるだけで、一銭の金も無いのである。夜になって婦人は、先生に実情を訴え、これではどうにもなりませんから、○○さん(総代)のところへ行って、幾らか拝借して来たいと思いますがと言った。
信者同士が勝手に争って、顔を合わすのが嫌いだから、教会へ来なくなったので、教会長との間には何も無いはずだが、婦人がこう考えたのも無理はない。池辺氏はようやく沈黙の後、それは止めてもらおう。行って頼めば、いくらかのことはしてくれるに違いない。けれどもこの八人の大家内を、見てくれるのは、親子兄弟の間柄でも、十日か二十日が関の山である。十日か二十日生き延びるために、一生涯見て下さる神様を離してしまっては、大変である。だからそんな弱い心を出してくれるな。
あるだけ頂くものがなくなったら、お水を頂いて暮らそう。親子揃ってご神前で、餓死させてもらったら、本望であるとさとした。婦人も老親と子供を思う心から弱気になり、迷い心を出したことを詫び、夫婦心を一つにして死を決して、神様に向かう覚悟をした。それにしても、両親にも覚悟を決めてもらわねば、委細を話して同意してもらった。かように心が定まると(こうふ歳月)、何の不安もなく休ませて頂いて、あくれば、十一月一日である。
早朝起き出て御祈念する一方、あるだけのお米を炊いて、お炊き初をお供えする時に、涙が溢れて止まらなかったと言われるが、それにはこれが最後の御神飯になるかも知れんという意味や、家内中心を一つに覚悟を定めさせて頂いた喜びや、また一方には自分ら夫婦は、もとより覚悟の上のことであるが、自分の不信のために、親や子にこの思いをさす比類や、万感胸に迫るものがあったのであろう。
かくして両親と子供には、十分頂かせて、自分も頂いて、お取次ぎの座に着き。ただ一心に御祈念をしておった。お一日と言うのに一人の信者も参ってこん。午後になっても小学校から帰ってきた子供が、お父さん学校のそばで○○さんに合いました。ご無沙汰をして済まないが、おかげを頂いておりますからと言うて下さい。これをお供えにと渡されましたと。十円札を差し出すのであった。この頃の十円は大金である。師は神前にお供えして涙と共にお礼を申された。師の喜びはどこにあったの。
夕食の飯一椀さえない時である。これで晩には両親にも子供にも、ご飯が板だかさせるという喜びであったら、師もまた平凡な先生である。師の喜びは他にあった。朝からの願うところも、他にあったのである。三日は親教会、三井教会の教祖大祭である。明日は早お手伝いに参らねばならん。徒歩で行くのだから、旅費は要らぬがお供え申すべき一銭の金も無い。なにとぞ御大祭にお供えのおかげを頂かせて下さいと、祈り続けていたのであるから、その願いの叶えられた感謝であったのだ。
それにしても家の家長だから、五円をお供えに五円を家の方にと思うのが人情であるが、師は断固人情に流れその金には、手を触れようともせず。親教会へのお供えのお取り寄せとして、一向に感謝を捧げていたのである。神様はよしお前の伸展見えたぞとお喜びになり、お褒めになったに違いない。それまで一人の信者もなかったのに、その後五合持ってくるもの、一升下げてくるものという様に、次々と参拝者ありて、あわせて四升五合のお供えがあった。
考えようによっては、神様がお前はお金を取り寄せてやっても米を食わんから、それでは子供が可愛そうだから、米を取り寄せてやろうとして下さったように思える。かくして後光も言うもなく二日から、参拝のお手伝いをし参拝後の後片付けを済ませて、四日に帰ってこられたのである。五日は星野の大祭である。何時も三井の町で何かと、御選ものお供え物を整えて帰るのだが、このときはそれが出来ない。
信者時代仲間であった人らが、池辺先生あなたの御大祭に参りたいと思ったが、やむを得ぬ差し支えで参られぬから、お初穂を頼むという人が数人出てきた。これをお繰り合わせで、品物に変えてお供えさせて頂いても、ご無礼になるまいと開いてみると、丁度買い物するだけのものがあった。星野に帰ってみると信者で、長崎の三菱造船に職工として、居るものから、大難で命をも危ないところをおかげ頂きましたと。
お礼として二十円の為替を送ってきたのを合わせて、留守中に四十何円かのお供えがあり、大祭も以外にお盛んのおかげを蒙り、御用は今日のところまでがさせて頂いたので、真に信者が少なくて相すまんと言うわけなのである。話を聞いているうちに、私も非常に有難くなり、もっともっと、話を聞かせて頂きたいと思ったのに、自動車が来たのでいく時ぞか、後ろ髪を惹かれる思いで辞したのである。